下記の名簿を作成するにあたっては、図書館の蔵書や手元にある書籍などを参照しましたが、特に
   ●主婦と生活社刊、生活シリーズ391「忠臣蔵大全−歴史ものしり事典」
   ●新人物往来社刊、別冊歴史読本「元禄忠臣蔵(実録・赤穂事件の全貌)」
   ●学習研究社刊、「実録四十七士−元禄赤穂事件の全貌」
   ●NHK出版刊、NHK大河ドラマストーリー「元禄繚乱」
には大変お世話になりました。感謝m(_・_)m。

 名簿の順番は、東京上野泉岳寺の墓碑配列です。別途、仮名手本忠臣蔵の登場人物名との対比も考えていますが、時間がなくて間に合いませんでした。後日掲載する予定です。
 こうやって名簿を作ってみると、忠臣蔵をそんなに知っているわけではないとはいえ、結構知らない名前が並んでいますね。 それと親子兄弟で義士に加わったという人が思ったより多かったです。でも新参ならともかく、譜代の家系なら世襲制ともからんで親子兄弟で仕官していてもおかしくはないんですけどね。

 赤穂四十七士の書誌事項は、戒名・享年・赤穂藩役職・知行高・討入時配置・討入後預先の順です。

赤穂四十七士
人名 大石内蔵助良雄 (おおいしくらのすけよしたか)
書誌事項 忠誠院刃空浄劔居士 享年45歳 国家老上席 1,500石 表門隊 細川
コメント 言わずと知れた忠臣蔵の主人公。物語上のイメージは昼行灯・恰幅よし小太りだが、事実は痩せの小男だったそうだ。しかし、さすがに譜代の国家老という風格はあったそうで、そうでなければ50人近くを率いて討入りなどという大事の遂行はできなかっただろう。
代々筆頭家老職をつとめてきた大石家の嫡男として、延宝5年(1677)、養父(実の祖父)大石内蔵助良欽の死去に伴い、家督相続し家老見習いとなった。二年後、正式な家老となる。貞享4年、但馬豊岡藩家老、石束毎公の娘・理玖と結婚。3男2女をもうける。
主君の刃傷事件以降、どう動けばいいか激しく心が動いた事だろうが、歴史に名を残す大人物はタイミングと人の扱い方が実に的確だ、と感じる。もちろん運も味方に付けないといけない。
城明渡し後、京都山科に隠棲し、江戸急進派を鎮撫しながら有りと有らゆる手を尽くして主君浅野内匠頭長矩の舎弟浅野大学長広を立てての浅野家再興を図っていたが、それも叶わぬとなった後、復仇のために全てをささげることとなった。ただし、あくまでも御家再興と復仇は表裏一体で、内匠頭刃傷の際の処分片手落ちを幕府に知らしめることが眼目であり、吉良の白髪首一つが目的ではなかった。
嫡男・大石主税と共に討入ったが、大石家に連なる他の親類縁者が義盟から次々抜けて行ったのには恥じ入っていた模様。
辞世 あら楽し思ひははるる身は捨つる 浮世の月にかかる雲なし

人名 吉田忠左衛門兼亮 (よしだちゅうざえもんかねすけ)
書誌事項 刃仲光劔信士 享年63歳 足軽頭・郡奉行 200石+役料60石 裏門隊 細川
コメント 浅野内匠頭長矩の2代前より浅野家に仕え、文武両道に優れ山鹿流にも練達していた。性格は温厚誠実で原惣右衛門の激烈な活動と対照的で、義士一統中に重きをなした。貝賀弥左衛門の兄。
城明渡し後は播州三木に浪居していたが、大石内蔵助に請われて江戸仇討急進派の鎮撫に駆り出されたが、その前に上方の同志の意思を統一すべく進言し、有名な山科会議を催した。会議後、組下足軽、討入り義士中唯一の生き残り、寺坂吉右衛門を同行し、近松勘六とその被官甚三郎の4名で東下りした。
三男吉田沢右衛門とともに討入り、裏門組大将・大石主税を補佐した。
討入り後、泉岳寺に向かう一党と一旦別れ、富森助右衛門とともに仙石伯耆守邸に討入口上書を差出し、幕府へ具陳した。
辞世 君がため思いぞ積る白雪を 散らすは今朝の嶺の松風

人名 原惣右衛門元辰 (はらそううえもんもととき)
書誌事項 刃峰毛劔信士 享年56歳 足軽頭 300石 表門隊 細川
コメント 実弟が岡島家の養子となった岡島八十右衛門
浅野内匠頭長矩の2代前長直に200石で召抱えられたが、後に250石、300石と加増されており、よほど優れた人物であったらしい。事実、主君の刃傷事件後、伝奏屋敷の浅野家道具を短時間のうちに引上げ、また浅野邸引払いの混雑を整理し、短時間で完了させた手際の良さは幕府目付も感嘆した。そしてその夜のうちに早打駕篭で赤穂へ立つなど、まさにスーパーマンともいうべき大活躍ぶりを見せた。
赤穂では大石内蔵助に同調し、怯惰な意見をはく大野九郎兵衛に詰め寄るなど、積極的な活動が目立つ。
討入り時は門上から滑り落ち、不覚にも足をくじいて満足な働きができなかったと悔やんでいたらしい。
討入り前に母が義挙励ましのために自殺したこともあって、下記の辞世が意味深い。
辞世 かねてより君と母とに知らせんと 人より急ぐ死出の山路

人名 片岡源五右衛門高房 (かたおかげんごうえもんたかふさ)
書誌事項 刃勘要劔信士 享年37歳 内証側用人兼小姓頭 300石+別高50石 表門隊屋内 細川
コメント 長矩に気に入られ側用人に重用され、刃傷事件時も供としてして控えていたが、異変に対応するため断腸の思いで引上げ、留守居役家老安井彦右衛門藤井又左衛門と相談し、事変のことを認めて早打駕篭で送り出した。その後、田村邸に囚われの身の主君へ目通りを願い、切腹の副検使、多門伝八郎のはからいで庭前に控え、内匠頭と無言の視線をかわした。刃傷事件後、最後に主君を見た唯一の家臣となった。
有名な内匠頭の伝言「かねてこの事は知らせおくべきであったが〜」は、源五右衛門と磯貝十郎左衛門にあてたもの。主君の切腹後、磯貝十郎左衛門および田中貞四郎・中村清右衛門とともに泉岳寺に亡骸を葬った。
主君の初七日後、田中貞四郎磯貝十郎左衛門とともに赤穂へ駆けつけたが、当初は連盟に加わらなかったため卑怯者呼ばわりされたが、のちに義盟に加わり、見事本懐を遂げた。

人名 間瀬久太夫正明 (ませきゅうだゆうまさあき)
書誌事項 刃誉道劔信士 享年63歳 大目付 200石 表門隊 細川
コメント 間瀬孫九郎の父。。地味な人で目立たないが、大目付として大石が頼りとした長老のひとり。堀部弥兵衛の手紙で自分一人でも斬り込むという気持ちを目にし、隠忍していた自分も同調するとして内蔵助の決断を促した。先発の主税に付き添って江戸に入った。
討入り後預けられていた細川家で切腹する際、数日前から腹痛下痢を起こしていたので、そそうして見苦しい時はよろしくお願いすると接待役の堀内伝右衛門に挨拶し、静かに切腹した。
事件後、連座して大島に遠島となった次男定八20歳は2年後に大島で病没した。

人名 小野寺十内秀和 (おのでらじゅうないひでかず)
書誌事項 刃以串劔信士 享年61歳 京都留守居 150石+役料70石 裏門隊 細川
コメント 子がなく、大高源五の弟幸右衛門を養子にしていた。大高源五の母が小野寺十内の姉なので二人とも甥にあたる。また、弟の息子が岡野金右衛門。一族多数が義挙に加わった事から、大石内蔵助に羨ましがられていた。
事変をきいて京都に妻と老母を残し、城を枕に討死に覚悟で赤穂へ駆けつけた。当初より義盟に加わり、終始大石内蔵助に同調した。
文学への嗜みも深く、藩中随一の歌人であった。江戸潜伏中や討入り後の預け先細川邸より京都の老妻小野寺丹へ愛情あふれる手紙を度々送っていた。妻よりの返歌「筆の跡みるに涙のしぐれ来ていひかへすべき言の葉もなし」など。それらは『涙襟集』に載っているが、義士の生活や覚悟など、貴重な義士資料文献となっている。
討入り時、袖印に「忘れめや百に余れる年を経て事へし代々の君がなさけを」としたためていた。
は老母の死を観取り、夫に先立たれて生きがいも失ったか、義士親族4名の供養墓を建てた後、自刃(または絶食とも)して果てた。

人名 間喜兵衛光延 (はざまきひょうえみつのぶ)
書誌事項 刃泉如劔信士 享年65歳 馬廻勝手方吟味役・山奉行 100石+小者給米 裏門隊 細川
コメント 無口で温厚な人柄だが、儒学老荘も学び文武両道に秀でていた。長男が間十次郎、次男が間新六
最初から義盟に加わり、討入り前の十月、原・岡島・貝賀と江戸入りし、先着していた十次郎・新六とともに時期をうかがった。討入り時は槍の柄に「都鳥いざ言とはん武士の恥ある世とは知るや知らずや」と書いた短冊をつけていた。裏門で本部を形作り、出てくる敵を念仏を唱えながら槍で付き伏せた。
辞世 草枕むすぶかりねの夢さめて 常世にかへる春のあけぼの

人名 磯貝十郎左衛門正久 (いそがいじゅうろうざえもんまさひさ)
書誌事項 刃周求劔信士 享年25歳 物頭並側用人 150石 裏門隊屋内 細川
コメント 利発で何事も器用にこなし、少年時代から歌舞音曲に秀でていたが、内匠頭が遊芸を嫌っているのを知り、それまでの芸事嗜みを一切やめ、学問書画の道に励むなど、よく弁えがついたので浅野内匠頭に寵愛され、物頭並側用人に取り立てられた。
内匠頭の遺言「かねてこの事は〜」はこの磯貝と片岡源五右衛門にあてたものである。
当初は片岡とともに独自に主君の仇を討とうとしていたようであるが、小人数で吉良上野介を討つのは叶わぬと悟り、義盟に加わった。
討入り時は吉良方の台所役人をつかまえ、ろうそくを出させて同志たちの働きよいように機転をきかせた。
首尾よく本懐を遂げ引上げの途中、近くに住む磯貝の老母が重病と知っていた内蔵助から今生の別れに見舞うようにすすめられたが、追手が来たとき自分が欠けていたら不覚だといってきかなかった。

人名 堀部弥兵衛金丸 (ほりべやひょうえあきざね)
書誌事項 刃毛知劔信士 享年77歳 元江戸留守居役 300石+隠居料20石 表門隊 細川
コメント 義士中の最年長者。実子弥一兵衛を斬り合いで亡くした2年後、高田馬場で勇名を馳せた中山安兵衛を長女の婿養子として迎えいれていた。
隠居の身ながら復仇企図に加担し、隠然たる貫禄を示した。討入り時には緻密な計画を練り、討入り口上書の原文下書きも弥兵衛が書いたといわれる。
討入り当夜には大石父子・吉田・原・小野寺ら最高幹部を参集し、その朝霊夢のうちに詠める「雪晴れて思ひを遂る朝哉」を披露して門出の祝宴を張っている。

人名 近松勘六行重 (ちかまつかんろくゆきしげ) 10
書誌事項 刃随露劔信士 享年34歳 馬廻 250石 表門隊 細川
コメント 山鹿流兵法に通じ、智略に富んだので内蔵助の側近で作戦参謀の一人として重用された。
吉田忠左衛門とともに江戸に東下りしたが、吉田は足軽寺坂吉右衛門を、勘六は近松家被官の甚三郎をつれていったが、この甚三郎が忠実に勘六の手足となって働き、内蔵助にも信用されて、討ち入り前に瑶泉院へ仇討ちの費用明細ほか重要書類を届ける使者となった。討入り当夜は門外で周辺を警備し、主人勘六はじめ、義士一同の首尾を案じ、引揚げの義士たちに餅や蜜柑を献じた話が残っている。
討入り時、勘六は吉良家随一の勇者山吉新八郎と激しく斬り合い、足を踏みはずして泉水に落ち負傷した。清水一学との立ち回りは、これが脚色されたもの。引揚げの途中、奥田家の養子となっていた異母弟、奥田貞右衛門がずぶ濡れの勘六に自分の小袖を脱いで着せ、いたわりながら行く姿は後世まで伝わっている。

人名 富森助右衛門正因 (とみのもりすけうえもんまさより) 11
書誌事項 刃勇相劔信士 享年34歳 馬廻兼使番 200石 表門隊屋内 細川
コメント 19歳頃浅野内匠頭に召し出された。礼儀正しく弁舌もさわやかであった。赤穂義士屈指の俳諧歌人であった。また、用意のいい人で、常に懐中に20両の金を持ち、不時の用に備えていた。浅野内匠頭の勅使饗応役の際、伝奏屋敷の接待準備を指図し、高田郡兵衛とともに品川到着の勅使を出迎えている。
事変後の処置から義盟参加まで用意周到で、母の隠居用として川崎に建てていた家を内蔵助の隠れ家として提供した。
討入り時は姓名を記した合い符の裏に「寒しほに身はむしらる丶行衛哉(ゆくえかな)」と記していた。
討入り後の引揚げ途中、吉田忠左衛門とともに仙石伯耆守邸に訴え出る役を仰せつかった。
辞世 先たちし人も有けりけふの日を 終(つい)の旅路の思ひ出にして

人名 潮田又之丞高教 (うしおだまたのじょうたかのり) 12
書誌事項 刃窓空劔信士 享年35歳 国絵図奉行兼郡奉行 200石 裏門隊 細川
コメント 剣術はかなりの腕前で兵学を山鹿素行にも学んでいる。緻密な頭をもっており、城明渡しの際には赤穂城絵図・領内絵図を作成して幕府目付に差し出した。
信義に厚く、医術に通じていた潮田は、薬の処方を医者に伝授の約束していたが、多忙で果たせなかったのを、東下りの寸暇に書いて届けている。また、舅であり大石内蔵助の叔父、小山源五右衛門が義盟に背いたため、妻を離縁し、義絶したが、一説では妻に累が及ぶのを避けたためと言われている。(妻ゆうはのちに広島家中御牧武太夫と再婚した。)
江戸では吉良邸の絵図を手に入れたり、堀部が手に入れた地図と照合するなど、訂正に努めた。
討入り後の泉岳寺へ引揚げる際は、槍の先に吉良上野介の首級を掲げ持った。
辞世 武士(もののふ)の道とばかりを一すじに おもひ立ぬる死出の旅路に

人名 早水藤左衛門満堯 (はやみとうざえもんみつたか) 13
書誌事項 刃破了劔信士 享年40歳 馬廻 150石 表門隊 細川
コメント 強弓の達人で藩中随一のきこえが高かった。殿中刃傷事件は江戸にあり、第一の早打駕篭で萱野三平とともに四日半で赤穂に急報をもたらした。
討入りは表門の屋根に登って弓矢を射掛け、屋根から立ち現れる敵を倒した。
辞世 地水火風空のうちより出でし身の たどりて帰る元のすみかに

人名 赤埴源蔵重賢 (あかばねげんぞうしげかた) 14
書誌事項 刃広忠劔信士 享年35歳 馬廻 200石 裏門隊屋内 細川
コメント 寡黙謹言で初めは一人で仇討ちを志していたようだが、後に同志となった。
芝居上の赤垣(埴字の読み間違い)源蔵徳利の別れは有名だが、実際は下戸だった。仇討ちの三日前、たまたま妹聟の屋敷に暇乞いに尋ねて妹と舅に対面したが、舅が赤穂旧臣の不甲斐なさを嘆いて意見したが、復仇には一言も触れず飲めぬ酒を飲んで別れた。数日後、吉良邸討入りを聞いて舅が悔やんだという。

人名 奥田孫太夫重盛 (おくだまごだゆうしげもり) 15
書誌事項 刃察周劔信士 享年57歳 江戸詰武具奉行 150石 表門隊屋内 細川
コメント 元鳥羽城主内藤忠勝の家臣。忠勝の姉が浅野采女正長友に嫁ぐのに従い赤穂に来た。延宝8年、忠勝の芝増上寺刃傷事件により内藤家は改易。孫太夫はそのまま浅野家中になる。つまり、2度も主君の刃傷・改易を経験している。
剣術の達人で、堀部安兵衛とは同門。堀部とともに江戸急進派の筆頭だったが、吉田忠左衛門の諌めで自重し、妻と養子奥田貞右衛門とともに江戸深川に待機した。
討入りは二尺余りの大太刀をふるう。自刃当日、切腹の稽古をしたことがないと言い、富森助右衛門がただ首を打たれればいい、と答えたやりとりが「堀内覚書」に残されている。

人名 矢田五郎右衛門助武 (やだごろううえもんすけたけ) 16
書誌事項 刃法参劔信士 享年29歳 江戸詰武具奉行 150石 表門隊屋内 細川
コメント 江戸在住で地理に明るく、赤埴源蔵とともに芝浜松町に潜伏した。
討入り時、屋内に入って背後より切りつけられたが、振り向きざまに敵を斬り払い、倒れる敵を二の太刀で真っ二つに斬った際、勢い余って金火鉢を切り刀が折れた。その事を切腹の際、介錯人に遺言している。

人名 大石瀬左衛門信清 (おおいしせざえもんのぶきよ) 17
書誌事項 刃寛徳劔信士 享年27歳 馬廻 150石 裏門隊屋内 細川
コメント 大石内蔵助の遠縁。刃傷事変を原惣右衛門とともに早打ち第二の駕篭で速報した。兄孫四郎が卑怯脱盟したのを憤って義絶したが、このことにより内蔵助に遠慮したため、浪人中はかなり困窮した模様。伯父の大石無人に度々無心している。
主税一行とともに江戸入り、無人の世話になって、討入り装束・小袖もはなむけにもらったが、それが今日、大石神社に遺物となっている。

人名 大石主税良金 (おおいしちからよしかね) 18
書誌事項 刃上樹劔信士 享年16歳 部屋住 裏門隊 松平
コメント 大石内蔵助の嫡男。裏門隊の大将。四十七士中最年少。内蔵助は最初義盟に加えるつもりはなかったが、主税が行動を共にしたいと言ったため仲間に加えられた。幼名は松之丞。討入りの日に元服し主税と名乗った。
弱冠15歳ながら大柄な母に似たのか、背が5尺7寸もあり大食漢だったらしい。
小野寺十内が主税に書かせた短冊を妻に送っているが、東下りの前に但馬の母に会いに行った時の感想として「あふ時はかたりつくすとおもえどもわかれとなればのこる言の葉」と主税の素直さが出ている。

人名 堀部安兵衛武庸 (ほりべやすびょうえたけつね) 19
書誌事項 刃雲輝劔信士 享年34歳 江戸常詰馬廻 200石 裏門隊屋内 松平
コメント 講談に言う「のんべえ安」「喧嘩安」とは反対で、謹厳実直、酒をたしなまかった。各地を剣術修行した後、江戸の剣客に師事したが、同門の伊予西条藩士菅野六郎左衛門と意気投合し、叔父甥の義盟を結ぶ。後に菅野と同藩士の喧嘩果し合いに高田馬場まで同行し、相手を討ち果たして勇名を轟かした。
堀部弥兵衛に見込まれ数々の要請を受け、娘の聟となって家督を継いだ。
江戸急進派の筆頭で、上方同志の悠長さについていけず、江戸同志だけで仇討ちを実行しようとしたが、内蔵助の慰撫に従い、吉良の動静を探り、吉良屋敷の地図を入手するなどした。
かなりの達筆で、大石無人・三平親子への訣別状や堀部武庸筆記など見事な筆跡である。
切腹前に落着かない態度を見せたが、第一番の大石主税が見事に果てたと知り、態度が一変、悠々と作法正しく切腹した。つまり若い主税の動静が気がかりだったらしい。

人名 中村勘助正辰 (なかむらかんすけまさとき) 20
書誌事項 刃露白劔信士 享年48歳 祐筆役 100石 裏門隊 松平
コメント 兵学の達人。初めから義盟に加わり、上方での仇敵急進派であった。京に出て内蔵助に従い、その代筆もよくつとめたらしい。間瀬久太夫とともに江戸へ下り敵情を探った。
山科会議後、心置きなく働くために妻と4人の子を奥州白河の生家に託すため、内蔵助から旅費5両を借り受け、白河への旅を済ませてその足で江戸に入る。
討入り後、遺子のうち忠三郎が遠島に処せられたが、後、赦免になった。

人名 菅谷半之丞政利 (すがのやはんのじょうまさとし) 21
書誌事項 刃水流劔信士 享年44歳 馬廻兼郡代 100石 裏門隊屋内 松平
コメント 山鹿流兵法の免許皆伝をうけ、後に家老見習いで多忙な内蔵助に伝授した。
事変後、備後三次に隠れていたが、上京して内蔵助に従い、高級参謀の役をつとめた。東下りにも内蔵助に同行したが、表立つ派手な行動はない、陰の功労者である。

人名 不破数右衛門正種 (ふわかずうえもんまさたね) 22
書誌事項 刃観祖劔信士 享年34歳 馬廻・浜辺奉行・普請奉行 100石 裏門隊 松平
コメント 事変の数年前に藩法にそむく落ち度があり、自分で暇をとって浪人していた。しかし、内匠頭が近侍の磯貝十郎左衛門に機会があれば帰参させたいと言っていたと聞き、感泣した。
吉田忠左衛門のとりなしで内蔵助とともに亡君の墓前に連れて行き、勘気お許しの祈念をし、帰参した家来として義盟に参加させた。
討入り時は縦横無尽の活躍をし、その刃の刃こぼれは甚だしく鋸の刃のようになった。

人名 千馬三郎兵衛光忠 (ちばさぶろうびょうえみつただ) 23
書誌事項 刃道互劔信士 享年51歳 馬廻兼宗門改役 100石 裏門隊 松平
コメント 剛直一辺倒で何事にも節を曲げなかったため、内匠頭の不興をかった。自らお暇を願って大阪の兄のところへ荷物を送って赤穂を退散しようとした時、事変が起こった。武士気質の三郎兵衛は見捨てて去る事をよしとせず、義盟に加わったが、原惣右衛門とともに復仇急進派に傾いた。
討入り時は半弓の名手の腕前を見せ、敵を大勢射立てて活躍した。

人名 木村岡右衛門貞行 (きむらおかうえもんさだゆき) 24
書誌事項 刃通普劔信士 享年46歳 馬廻役・国絵図奉行 150石 裏門隊 松平
コメント 学問好きで早くから陽明学を学んでいた。国絵図奉行として潮田又之丞とともに残務処理にあたった。慎重派であったらしく、第一次・第二次の義盟には加わらず、第三回の義挙会議決定に初めて連判している。
中堅派同志として信望もあった。
辞世 思ひきや我武士(もののふ)の道ならで かかる御法の縁にあうとは

人名 岡野金右衛門包秀 (おかのきんうえもんかねひで) 25
書誌事項 刃回逸劔信士 享年24歳 部屋住(父:馬廻物頭) −(父:200石) 表門隊 松平
コメント 初名九十郎。父金右衛門は小野寺家出身で、小野寺十内大高源五の母の弟にあたる。事変の際、父金右衛門は内蔵助の動議に賛同したが、浪居中重病で床についたので、九十郎が諸事の代理をつとめた。
江戸潜伏中に病父が死去したので二代目金右衛門を名乗り義盟に正式に参加した。
討入りは血気盛んな若者らしく大奮戦したと小野寺十内が妻に宛てた手紙に認めてある。
俳句にも秀で、放水の号で秀句を詠んでいる。
辞世 その匂ひ雪のあしたの野梅かな

人名 貝賀弥左衛門友信 (かいがやざえもんとものぶ) 26
書誌事項 刃電石劔信士 享年54歳 中小姓兼蔵奉行 10両、米2石3人扶持 表門隊 松平
コメント 吉田忠左衛門の実弟。母方の貝賀家を継いだ。兄に劣らず誠実さから内蔵助の信任も厚かった。円山会議後、義盟同志の真意を探るため、大高源五とともに血判状を返して廻り(俗に言う神文返し)、上方同志の意思の堅固さを見届ける重い役目を果たした。奥野将監・進藤源四郎ら脱盟者が続出したのはこのときである。
義士の世話をしてくれた京都の呉服商で、天野屋利兵衛のモデルと言われた綿屋善右衛門と親しく、赤穂離散後は綿屋に寄寓。大高源五と連署で26両を借用している。江戸下向後もよく手紙を出しており、江戸潜伏中の暮らしの様子など貴重な資料となっている。

人名 大高源五忠雄 (おおたかげんごただお) 27
書誌事項 刃無一劔信士 享年32歳 膳番元方・腰物方・金奉行 20石5人扶持 表門隊 松平
コメント 伯父の小野寺十内の養子となったのが実弟の小野寺幸右衛門。もう一人の伯父の嫡男が岡野金右衛門である。
大石内蔵助からもっとも信頼されていた中堅で、大石の命による血判状の破棄・再盟結(貝賀弥左衛門に同道)、あるいは江戸急進派鎮撫の使者となるなど赤穂・大阪・京都・江戸を東奔西走した。また、吉良家出入りの茶の湯宗匠に上方商人という触れ込みで弟子入りし、討入り当日、吉良家屋敷で茶会があることをつきとめた。横川勘平の情報と合わせ、討入りの日が決まった。
俳諧に秀で、俳人として一家をなしていた。蕉門の其角は先輩。
辞世 梅で呑む茶屋もあるべし死出の山

人名 岡島八十右衛門常樹 (おかじまやそうえもんつねき) 28
書誌事項 刃袖払劔信士 享年38歳 札座勘定奉行 20石5人扶持 表門隊屋内 毛利
コメント 実兄は原惣右衛門。養母は吉田忠左衛門貝賀弥左衛門の妹。忠左衛門の嫡男吉田沢右衛門と合わせ、縁者5人が義盟に加わっている。
八十右衛門は実直清廉で大石内蔵助の信任も厚く、藩札交換の責任者となって事に当たり、塩田業者に貸しつけてあった金の取り立てにも骨を折った。たまたま藩札引き換え中に公金持ち逃げの不届き者が現れ、それを大野九郎兵衛になじられたのを怒った八十右衛門は大野の屋敷に押し掛け、その剣幕に恐れをなした九郎兵衛は赤穂から夜逃げしたと伝えられる。
刃傷事件から城明渡しまでを記した「赤穂城引渡覚書」は通常「岡島常樹覚書」として貴重な史料である。
勘定方の職務を全うした後、京都で病に臥し同志との連絡が途絶えたため真意を疑われた事も有る。内蔵助から吉良側偵察のため江戸下向を命じられるが、神崎與五郎が代わりとなる。10月、貝賀弥左衛門間喜平衛原惣右衛門とともに江戸入りし、潜伏した。

人名 吉田沢右衛門兼貞 (よしださわうえもんかねさだ) 29
書誌事項 刃当掛劔信士 享年29歳 蔵奉行 13両3人扶持 表門隊屋内 毛利
コメント 吉田忠左衛門の三男。改易当時は部屋住みとする説もあるが、赤穂藩分限帳によるとちょうどそのころ役付きになっていたと思われる。大石内蔵助の意向により父とともに働いた。

人名 武林唯七隆重 (たけばやしただしちたかしげ) 30
書誌事項 刃性春劔信士 享年32歳 馬廻・中小姓 15両3人扶持 表門隊屋内 毛利
コメント 帰化人孟子式の子孫で、さらにその元を辿れば孟子に行き着く。兄の渡辺半右衛門も赤穂藩士であったが、父母が病床にあって看護を半右衛門がしていたため義盟には加われず不忠義者の誹りを受けた。唯七はその兄に父母をよろしく頼むと書きつけているし、大石内蔵助からも半右衛門宛てに兄が孝、弟が忠をなしているから立派だ、という慰撫状を貰っている。忠義一徹の唯七が急進派に属していたのはそういう焦燥があったからだろう。
討入り時、台所の物置から飛び出した敵を間十次郎三村次郎左衛門が斬り倒し、なお一人出て来て刃向ったので唯七が斬り倒した。それが吉良上野介で、その殊勲により、泉岳寺で亡君の墓前に参った時は間十次郎が一番焼香で唯七が二番焼香の栄に浴した。

人名 倉橋伝助武幸 (くらはしでんすけたけゆき) 31
書誌事項 刃鍛錬劔信士 享年34歳 扶持奉行兼中小姓 20石5人扶持 裏門隊屋内 毛利
コメント 父を早くに亡くし、わずか6歳で家督を継いだ。内匠頭に気に入られ、近侍の小姓として仕えている。江戸急進派に属していたが、吉田忠左衛門の説得で時期を待つ事になり、町人に化けて敵情を深く探った。特に商店の番頭に化けて吉良邸の下人に近づいて動静を探った手柄は大きい。
武芸にも練達し、討入り時は内匠頭拝領の刀で勇戦した。
講談では旗本の出でありながら放蕩で身を持ち崩し、木更津で髪結い床に弟子入り、浅野家に仲間方向という経歴だが、これはもちろん作り話。

人名 間新六[郎]光風 (はざましんろく[ろう]みつかぜ) 32
書誌事項 刃摸唯劔信士 享年24歳 赤穂浪人 裏門隊 毛利
コメント 間喜兵衛の次男。間十次郎の弟。養子に出されていたが養父と折り合いが悪く、実家へ帰ろうにも喜兵衛が聞き入れず、やむなく出奔して江戸に出てきていた。殿中刃傷事件以後、父と兄が復仇を謀っている事を知った新六は同志参加を請い、最初は断られたがのちに義盟に加わった。
義士中、唯一人だけ真剣切腹をした。その当時の切腹は型が決まっており、三方へ載せた短刀を前肌押し広げた腹へあてる格好をした瞬間、介錯人が首を打つのが常套であるが、新六は短刀を握るといきなり左腹に突き立て右へ引き回し右上にはねた。その時初めて介錯人が不覚とばかり首をはねた。検視役が死骸を見て「みごと」と言った話が伝わっている。
亡骸は姉聟中堂又助が貰い受け築地西本願寺に埋葬されたので、泉岳寺に合葬された義士墓の中で唯一人、墓の中に埋葬されていない。遺髪分骨である。

人名 村松喜兵衛秀直 (むらまつきひょうえひでなお) 33
書誌事項 刃有梅劔信士 享年63歳 江戸常詰扶持方奉行 20石5人扶持 表門隊 毛利
コメント 村松三太夫の父。名字帯刀を許された江戸町人の出身。初め作州の堀田上野介に仕えていたが、同家の家来村松九太夫が浅野家に仕える事となり、その娘聟となり村松家を継いだ。
実直な人間で、算用に巧みな事から勘定方役人をしていたが、赤穂は知らない。しかし、刃傷事件を知ると妻を親類に預け、息子三太夫に母を見守るようにいいつけ赤穂へ立ったが、三太夫が老父を案じて後を追って追いつかれ、帰れ、お供をすると押し問答しながら赤穂まで辿りついてしまった。内蔵助は遠路江戸から第一番に馳せ参じた父子の志を聞いて喜び、以後の義盟に加えた。
江戸の地理に明るい村松父子は討入りまでの間、同志に江戸情報を提供しつづけた。
辞世 命にも易へぬ一つを失はば 逃げ隠れても此を遁れん

人名 杉野十平次次房 (すぎのじゅうへいじつぐふさ) 34
書誌事項 刃可仁劔信士 享年28歳 札座横目 8両3人扶持 裏門隊屋内 毛利
コメント 剣術の達人で志操堅固。江戸在住で義盟に参加。赤穂開城のおり、母方の萩原家の叔父たちが家伝来の大砲を受城使に売り、藩中の怒りを買う。十平次はこの萩原一族と義絶した。
家財道具を売り払い、貯えていた金とあわせて千両近くも所有し、討入りまでの浪士の生活援助に惜しげもなく資金提供した。
潜伏中は剣術道場を構え、同志の出入りと討入り集合場所の提供も行っている。
巷説では吉良邸の様子を探るため十平次は夜なきそば屋になり、浪人俵星玄蕃とからんでいるが、いずれも講釈師の創作である。

人名 勝田新左衛門武堯 (かつたしんざえもんたけたか) 35
書誌事項 刃量霞劔信士 享年24歳 中小姓・札座横目 15石3人扶持 表門隊屋内 毛利
コメント 年少組の気鋭で、最初から義盟の志堅く、堀部安兵衛ら急進派と親しみ、吉良の動静を探っていた。剣術の達人であるが、融通が利いたらしく町人姿で探索に出かけていた。
幕府与力大竹重兵衛の娘八重と結婚していたが、復讐の企てを知らぬ舅から罵倒される有名な話があるが、これは講釈師の創作である。その他、「仮名手本忠臣蔵」11段目では、小林平八郎と死闘の末、池に落ちた新左衛門の刃が平八郎の横腹に、と奮闘している。

人名 前原伊助宗房 (まえばらいすけむねふさ) 36
書誌事項 刃補天劔信士 享年40歳 中小姓・扶持方奉行 10石3人扶持 裏門隊 毛利
コメント 世事に長け、古着商に化けて吉良邸の長屋に入って様子を探ったり、のちに米屋五兵衛と名乗って神崎與五郎の小豆屋善兵衛とともに店を構え、利益無視の安売りで人気をあつめ、吉良邸に取り入るなど、密偵をした。
漢学の素養も有り、神崎與五郎との共著、「赤城盟伝」を著している。

人名 小野寺幸右衛門秀富 (おのでらこううえもんひでとみ) 37
書誌事項 刃風颯劔信士 享年28歳 部屋住 表門隊屋内 毛利
コメント 大高源五の実弟で、実母の弟である小野寺十内の養子。実母のもう一人の弟の嫡男が岡野金右衛門である。京都留守居役である養父十内の代理として手伝いをしていたようである。
事変後、十内は赤穂へ馳せつけたが、親孝行ある幸右衛門もその後を追い、すすんで義盟に参加した。十内に従い幸右衛門も江戸へ出ている。十内と同居し、老人組の手足となって働いている。
討入り時はとっさの機転で吉良方の弓の弦を切りはなったことを、義士連中やお預けの家中からも高く評価されている。

人名 間十次郎光興 (はざまじゅうじろうみつおき) 38
書誌事項 刃澤蔵劔信士 享年26歳 部屋住 表門隊 水野
コメント 間喜兵衛の嫡男。間新六の兄。山鹿流兵学を学び、堀部安兵衛奥田孫太夫と並び称される剣の達人であった。老齢の父が義盟に加わったので、自らもたって参加した。人情に厚く、親交のあった武林唯七の兄が父母の看病のため義盟に加われないと痛嘆していることを慰めた手紙が残存している。
討入り時、表門組に属して奮闘し、上野介の隠れ潜んでいた台所の物置小屋に槍を突き入れ、上野介の太股を刺して発見した第一の殊勲者となった。そのため、泉岳寺の亡君墓前で第一番に焼香する光栄に浴した。第二番目は上野介の止めを刺した武林唯七。次に大石内蔵助以下が続いた。

人名 奥田貞右衛門行高 (おくださだうえもんゆきたか) 39
書誌事項 刃湫跳劔信士 享年26歳 加東郡勘定方 9石3人扶持 裏門隊 水野
コメント 近松勘六の異母弟。奥田孫太夫の婿養子。医業の心得があったため、年若ながら妻帯していた事も有り、江戸潜伏中は町医者に化けて吉良邸の様子を探った。
討入りの一週間前、一子清十郎誕生。弟の養子としたわが子の将来を案じ、遺書を認めている。その子清十郎は弟の仁尾家を継ぎ、成人して仁尾孫三郎定勝。阿波蜂須賀家に召し抱えられた。
討入りの引揚げの時、立ち回りで池に落ちて負傷した兄近松勘六に自分の小袖を着せかけていたわる姿は江戸中を感嘆させた。

人名 矢頭右衛門七教兼 (やこうべよもしちのりかね) 40
書誌事項 刃擲振劔信士 享年18歳 部屋住 表門隊 水野
コメント 右衛門七の父は赤穂藩の中小姓・勘定方。内蔵助を助けて会計残務処理につとめ信頼されていた。病に倒れ元禄15年8月に大阪で息を引き取る際、腹巻を右衛門七に与え、「これを着て父の分まで働け。供養などより亡君の仇を討ってくれ」と遺言した。その父の願いが心魂に徹していた。
京の円山会議には病父の代理で出席したが、年若だからと内蔵助から義盟に加わる事を拒まれた。顔色を変えた右衛門七が別室に下がって切腹をしかねない様子を見た内蔵助は心魂を察して加盟させた。
美男紅顔であったから、泉岳寺では僧たちが群がりよったという。

人名 村松三太夫高直 (むらまつさんだゆうたかなお) 41
書誌事項 刃清亢劔信士 享年27歳 部屋住 裏門隊屋内 水野
コメント 村松喜兵衛嫡男。父に似て実直な人柄で、江戸育ちで地理にも明るい事から吉良方の動静を探っていた。初めは父母と同居していたが、のち義士と合流した。
同志宛てに吉良の様子がなかなか掴めないと苛ついている様子の書簡が現存している。

人名 間瀬孫九郎正辰 (ませまごくろうまさとき) 42
書誌事項 刃太及劔信士 享年23歳 部屋住 裏門隊 水野
コメント 間瀬九太夫嫡男。最初は年若ゆえ義盟に加われなかったが、内蔵助が方針を変えたのが最初の東下り以降で、その頃から義盟に参加した。赤穂でも京・江戸でも父の手足となって働いた。
討入り引揚げ途中、子供が槍の柄にすがったり袖印をみてよろこぶので、これを引きちぎって与えた。心根の優しい若者であった。

人名 茅野和助常成 (かやのわすけつねしげ) 43
書誌事項 刃響機劔信士 享年37歳 横目(徒士目付) 5両3人扶持 裏門隊 水野
コメント 神崎與五郎と同じ美作の出身で、内匠頭に仕えてわずか4年であった。節義に厚い人物で最初から義盟に加わり、連絡方として同志を繋ぎ、内蔵助の信任を得て大石主税が東下りをする際には間瀬九太夫とともに同行した。
江戸では磯貝十郎左衛門と同居。町人に身をやつして吉良方の動静を探った。

人名 横川勘平宗利 (よこがわかんぺいむねとし) 44
書誌事項 刃常水劔信士 享年37歳 徒士横目・焔硝蔵奉行 5両3人扶持 表門隊 水野
コメント 開城時、城下より一里ほど隔てた焔硝蔵守備の役についていたが、殉死の義を聞き加盟した。
江戸では茶の湯宗匠に近づき、たまたま聞き及んだ12月14日茶会招待の返事を代筆し、ついでに吉良邸へ届け、確かにその夜吉良が在宅する事を確認。大高源五が聞込んで来た日時と合致したので、決行の日を決するに至った功労者である。

人名 三村次郎左衛門包常 (みむらじろうざえもんかねつね) 45
書誌事項 刃珊瑚劔信士 享年37歳 台所役・酒奉行 7石2人扶持 裏門隊屋内 水野
コメント 身分の低い台所役人で、常駐会議の主席に侍ったが、酒を運んで行くと秘密の話を聞かせまいと皆口をつぐむ。次郎左衛門は憤然として身分の上下で分け隔てされるなら切腹して忠義の志を見せようと抗議した。それを聞いた内蔵助が加盟を許したので大いに働き奔走した。
ちょうど妊娠していた妻は生活苦のために胎児をおろして死亡。次郎左衛門は哀れな妻子のために施餓鬼をして討入りに臨んだ。

人名 神崎與五郎則休 (かんざきよごろうのりやす) 46
書誌事項 刃利教劔信士 享年38歳 足軽徒士目付・郡目付 役料5石+5両3人扶持 表門隊 水野
コメント 刃傷事件以後、内蔵助に従っていた。文武両道に優れ、文章も巧みで漢字の素養も有り、特に俳句は大高源五と並び称された。
江戸急進派鎮撫のため派遣された吉田忠左衛門近松勘六に続き、岡島八十衛門が東下りする予定だったが病に倒れたので代わりに機転のきく神崎與五郎を派遣した。
江戸へ出た與五郎は物売りに扮し吉良邸へ出入りしようとしたり、吉良家の女中や奉公人に近づいて様子を探った。
前原伊助との共著「赤城盟伝」は貴重な義士資料の一つとなっている。
辞世 梓弓春近ければ小手の上の 花をも雪のふぶきとや見ん

人名 寺坂吉右衛門信行 (てらさかきちうえもんのぶゆき) 47
書誌事項 遂道退身信士・節岩了貞信士 享年83歳 吉田忠右衛門組下 裏門隊屋内
コメント 唯一人、浅野家の家臣ではなく、吉田忠左衛門の家来であるが、事変後は忠左衛門の手足となって献身的に働いた。討入り後、泉岳寺門前で内蔵助よりかねてから申しつけの様にせよとの命に、せめて殿の墓前までと願ったが許されず退散した。
逃亡説もあるが、忠左衛門が語った「軽き身分のもので昨夜まではいたが姿が見えなくなった」とあるからだが、他の史料によれば吉右衛門の実直な姿がみえてくる。おそらく瑶泉院はじめ、浅野家ゆかりの人たちに討入り時の様子を直に伝える命を受けていたのであろう。
全てが済んだ後、大目付仙石伯耆守に自首したらしいが、身分軽きゆえお咎めどころか、金子10両を与えられ解き放たれたらしい。その後、他の家に仕え、江戸に出て寺男などをして83歳の天寿を全うした。



赤穂藩関係者 (書誌事項は特に決まりなし)
人名 浅野内匠頭長矩 (あさのたくみのかみながのり)
書誌事項 戒名:冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士 享年35歳 播州赤穂藩主 53500石
コメント 赤穂浅野家の始祖、浅野長重は浅野家の家祖、浅野長政の三男で、徳川秀忠に仕えた。長重の嫡子、内匠頭長直が常陸国真壁から播州赤穂へ転封したのが正保2年(1645)。長直の嫡子、采女正長友は早逝したので、長友の嫡子、内匠頭長矩がわずか9歳で赤穂5万石を襲封した。そして江戸城松の廊下の刃傷事件を起こした事により領地召し上げとなったのが元禄14年(1701)なので、実際に浅野家が赤穂を統治したのは56年間でしかないが、日本中を震撼させる大事件により、赤穂=浅野家の図式が定着した。
長矩17歳の時、三次浅野家城主、浅野因幡守長治の次女、阿久里(瑶泉院)と婚姻。子はなさず、実弟である浅野大学長広を養子とした。
史料や芝居などでは美化されて伝えられているが、一説では人間的な魅力はあまりなく、男色・女色に目がなく、風紀は乱れており、短気で媚びへつらう家臣を重用したとのこと。阿久里との間に子ができなかったのも、美少年にうつつを抜かしていたせいとも言われている。辞世があまりにもいい出来だったので後の評価を誤らせた、という事も言われているが、その辞世でさえ内匠頭に同情的だった切腹の際の幕府検使、多門伝八郎の創作ではないか、との説さえあるほどだが、刃傷後わずか8時間で切腹させられ、口伝の遺言以外一切の書きつけを許されなかったこともあり、真実は深い闇の中に葬られてしまった。
持病である痞(つかえ)がもとで神経衰弱を病んでいたらしく、それが刃傷の原因のひとつとも言われている。
辞世 風さそふ花よりもなほ我はまた 春の名残を如何にとかせん

人名 浅野大学長広 (あさのだいがくながひろ)
書誌事項 戒名:亮監院殿月清涼山大居士 享年65歳 旗本寄合 500+300石
コメント 2代目赤穂藩主浅野采女正長友の次男。浅野内匠頭長矩の実弟。元禄7年(1694)赤穂藩領から3000石を分知され、幕府旗本寄合いに列した。長矩に子がなかった事から、元禄8年(1695)仮養子となる。
元禄14年(1701)、長矩の刃傷事件の際、早打駕篭で国家老宛てに急報を出す。類罪により閉門。翌15年、広島の浅野本家へお預け。この処置により、大石内蔵助が吉良邸討入りの決断を下す。
宝永6年(1709)年に恩赦を受け免罪。翌年500石(他に浅野本家からも300石給す)を賜り、交代寄合に列した。享保19年、65歳で歿した。

人名 阿久里(利)/瑶泉院 (あぐり/ようぜいいん)
書誌事項 戒名:瑶泉院殿良瑩玉澄大姉 享年41歳
コメント 備後国三次浅野家藩主、浅野因幡守長治の次女。浅野内匠頭長矩の正室。わずか2歳の時、縁組みがなされ、5歳で赤穂浅野家に引きとられ、天和3年、10歳のとき結婚式が挙げられた。以後、18年間、子供には恵まれなかったが、才色兼備、聡明で理知的な女性で知られた。
長矩刃傷の急報を持って来た義弟、浅野大学に上野介の生死を尋ね、それを確かめてなかったため叱ったことは有名。その夜のうちに髪を下ろし、寿昌院と称したが、後に将軍綱吉の生母、桂昌院の名と重なるので、瑶泉院と改めた。
また、鉄砲州の浅野家上屋敷から実家である三次浅野家の下屋敷に移る。ここが南部坂に近く、芝居や講談の「南部坂雪の別れ」の舞台とされた。
史料によると、阿久里輿入れの際の持参金690両の化粧料返還報告を元禄14年、討入り一年前に大石内蔵助から受けているが、そのまま化粧料は内蔵助が預かり、その使途報告を翌元禄15年、討入り一ヶ月に受けているところから、明らかに討入り費用はそこから出されており、瑶泉院もそれを承知していたと思料される。
討入り後はただちに義士達の遺族の赦免運動に奔走し、3年後と6年後にそれぞれ恩赦・大赦により願いは果たされた。その後は動向の記録はなく、正徳4年(1714)、41歳で歿した。

人名 大石理玖 (おおいしりく)
コメント 但馬豊岡藩家老、石束源五兵衛毎公の娘。貞享3年、18歳で大石内蔵助に嫁ぐ。翌年長男主税、長女久宇、次男吉千代、次女留利(3歳のころ、進藤源四郎の養女となる)などをもうける。
元禄15年、御家断絶・城明渡しの後、内蔵助とともに京都・山科に移り住むが、翌年春、離縁を言い渡され、身重の身体で豊岡の実家へ身を寄せた。そこで三男大三郎を出産した。
夏、主税が理玖を尋ね、弟の出産祝いと祖父へ挨拶す。その時の心情が討入り後、小野寺十内が妻丹に当てた手紙の中にあり、「あふ時はかたりつくすとおもえどもわかれとなればのこる言の葉」と伝わっている。
十月朔日付で内蔵助より離縁状到着。
翌年、内蔵助と主税の切腹後、仏門に入り、香林院と称して菩提を弔いながら子供達の養育に力を注ぐ。
のち、父の顔を知らない三男大三郎が芸州浅野本家が父と同じ1500石で召し抱えられたのに伴い、広島に移り住んだ。元文元年、67歳で歿した。

人名 小野寺丹 (おのでらたん)
コメント 赤穂藩京都留守居役、小野寺十内の妻。夫婦して和歌を愛でる趣味人のおしどり夫婦であった。子に恵まれず、末妹を養女に、さらに十内の姉の子、幸右衛門を養子に迎える。十内の実母とともに京都での暮しは穏やかで充実していた。
刃傷事件後、代々の御恩に報いるためにと十内、幸右衛門ともに討入りに参加。十内が切腹までの間、預け先の細川邸より度々送られて来た書簡集が後の世の貴重な史料となっている。
夫の十内、養子の幸右衛門、および幸右衛門の実兄大高源五、甥の岡野金右衛門の4人の菩提を弔った。翌年、養女いよが病没したのち、本圀時了覚院に籠り、絶食して果てた(自刃の説もあり)。
辞世 夫(つま)や子の待つらんものをいそがまし なにかこの世に思ひおくべき

人名 大野九郎兵衛 (おおのくろうひょうえ)
書誌事項 赤穂藩仕置家老 650石
コメント 大石内蔵助のように永代家老職ではなく、位置づけは一代家老。
赤穂浪士討入り事件を通じて、吉良上野介についで悪役をつとめているが、その評価は史料によって大きく分かれるが、築城の借財に苦しむ赤穂藩の塩田開発・堤防改築など理財に功をなし、刃傷事件による藩取りつぶしの際、六分替えとなった藩札による藩内経済を切り盛りしていた敏腕家老であることは間違いない。
一方、ムダを省く理財家の辣腕ぶりが藩士たちにケチで非情と映り、反感を買っていたらしい。
開城論争では最初から無抵抗開城説を唱え、藩士たちへの分配金(いわゆる退職金)を分配する際に大石内蔵助が取った下に厚い累減法には最初から異を唱えたが、それが結果的に赤穂に居づらくなってしまった。
開城前のどさくさに紛れ、公金を持ち逃げした勘定方役人の不始末を勘定奉行の岡島八十右衛門の監督不行き届きだと詰ったが、それが清廉一徹の八十右衛門を怒らせ、大野の屋敷に連夜押し掛けるのを怖れ、家財道具類を置き離して逐電してしまった。4月12日のことである。
ただしこれら伝えられる逸話は、仇討ちを美化するためにことさら「悪役」を押しつけられた感がある。混乱の中の冷静な判断力には見るべきものもあっただろう。
一説には大野九郎兵衛はじめ、討入りまでに脱盟してしまった奥野将監らとともに、仇討ち第2陣説もある。米沢の板谷峠には内蔵助らが失敗した際に米沢に逃れるであろう上野介を待ち伏せていたという話が残っており、墓もあるそうだ。その他、大野九郎兵衛ゆかりの地と称する地は全国に数ヶ所有るが、実際には「伴閑セイ」と名乗って京都の仁和寺に住み、年次不明の4月6日が命日という記録が残っているそうだ。
いずれにせよ、大石らの討入りの話をどういう心持ちで聞いたのであろうか。肩身の狭い思いで晩年を過ごしたと思われる。

人名 奥野将監定良 (おくのしょうげんさだよし)
書誌事項 赤穂藩組頭 1000石
コメント 大石内蔵助の一族であり、母は討入りの協力を惜しまなかった大石無人の妹。
赤穂城開渡しの際には逐電した大野九郎兵衛に代わり、家老と称して開け渡し作業に尽力した。盟約にも最初から参加し、内蔵助とも頻繁に連絡を取りあっていたが、7月28日のいわゆる円山会議後に内蔵助が貝賀弥左衛門大高源五に命じて行った神文返しに口頭で脱盟を伝えた。これには大石もかなりのショックを受けた。ただし、奥野は最初から仇討ち決行の中心人物であったにしてはあまりにも素気ない脱盟であり、種々の謎に包まれている。
一説では内蔵助の隠し子を守るため、と言われたり、小山源五右衛門・進藤源四郎とともに、脱盟と見せかけて内蔵助が吉良を打ち損じた時のために二番隊として討ち取る手筈だったとも言われているが、実際には内蔵助の放蕩を理由に背盟の体裁を繕ったのだろう。
脱盟後、京都から兵庫の多可郡に移り住み、そこで没した。墓には「玄徳院節厳禅義居士、浅野匠之守家臣奥野将監」とあり、事件後25年、80歳まで生きたらしい。

人名 萱野三平重実 (かやのさんぺいしげざね)
書誌事項 浅野家中小姓 12両2分3人扶持 享年28歳(自殺)
コメント 刃傷事件の際には早水藤左衛門とともに第一報を早打ち駕篭で知らせたことで知られる。その際、故郷の萱野村を通りかかった際、全くの偶然で実母の葬儀に遭遇したが、線香一本手向けることなく赤穂に至った話は有名である。
急報後は赤穂に留まり義盟に加わった。開城後は大阪萱野村に戻り仇討ち決行のときを待っていたが、実父七郎左衛門が仕官している旗本大島家への三平の仕官を七郎左衛門が勝手に受けてしまった。仇討ちの決意を察していたと思われる七郎左衛門は、三平が吉田忠左衛門近松勘六と約束していた江戸下向も父が頑として許さず、進退極まり、元禄15年1月14日払暁、亡君の命日に義に殉じる遺書を残し、備中水田国重の刃を腹に突きたてて果てた。
仮名手本忠臣蔵の早野勘平のモデルで、お軽との恋物語で仇討ちの悲劇を際だたせるが、創作である。
涓泉の号で俳句をよくしていたが、辞世の句が苦衷に満ちた日々を如実にあらわしている。
辞世 晴れゆくや日ころ心の花曇り

人名 高田郡兵衛 (たかだぐんびょうえ)
書誌事項 浅野家家臣 200石
コメント 槍の達人で、江戸初期に「槍の又兵衛」としてその名を知られていた高田又兵衛の孫とも伝えられる。
江戸勤番の仲間である堀部安兵衛奥田孫太夫らとともに仇討ち強硬論を主張し、急進派として行動は過激であったが、12月に入って突然脱盟。堀部安兵衛が書き遺している「武庸筆記」によると、郡兵衛の伯父の幕府御家人、内田三郎右衛門から養子の話が舞い込んだ。断る理由をと責められ、つい仇討ちの血盟のことを漏らしてしまい、「御公儀に対する反抗」と騒がれるのを怖れ、やむなく養子話を呑み脱盟した、と記してあるが、同志郡兵衛に変節された安兵衛の苦渋の理由づけと思われなくもない。何よりその理由では裏づけを取る術もなく、郡兵衛の一方的な話で脱盟が可能だったわけである。
後日談として、義士が無事本懐を遂げ泉岳寺に引きあげる途中、三田八幡の近くで郡兵衛に出会ったが、誰一人声をかけることもなかった。すると郡兵衛、祝い酒を持って泉岳寺を訪れたが、義士は憎い奴と罵ったのを内蔵助がたしなめたと伝えられる。
討入り後、内田は世間体を憚り、郡兵衛を離縁しており、その後の郡兵衛の行方は杳として知れない。

人名 小山田庄左衛門 (おやまだしょうざえもん)
書誌事項 浅野家家臣
コメント 仇討ちの同志として勤めていたが、討入り直前の12月に入って片岡源五右衛門宅から金子3両と小袖や布団を盗んで逃げた。こうなると脱盟どころではなく、単なる犯罪者である。
その逃亡を同志に目撃されたあげく、後に江戸深川万年町で医者を生業としていたが、享保6年(1721)、下僕の手にかかり、妻ともども殺害されたという後日談を後世に残した。
また、見事本懐を遂げた同志の中に自分の息子の名が無く、おまけに破廉恥な行為で逃亡した事を知った庄左衛門の老父、80歳余りの小山田一閑は老いの一徹で腹掻き切って世間にお詫びすると言う悲劇も起きている。

人名 毛利小兵太 (もうりこへいた)
書誌事項 浅野家家臣 大納戸役 20石5人扶持
コメント 盟約には元禄14年末頃加わったと見られる。江戸において吉田忠左衛門の手足となって奔走し、中間になりすまして吉良邸内の様子を探るなど、目覚ましい働きをした。
12月2日の深川の最後の打合せにも出席し、5日の討入りが15日に延期になって2人脱盟者(矢野伊助・瀬尾孫左衛門)が出て同志は48人となった。
そして討入り3日前の11日夕、小兵太は手紙「私儀俄によんどころなき存じ寄りこれあり候に付き、このたび申し合わせ候ご人数あい退き申し候、左様お心得下さるべき候…日本の神慮以外毛頭他言仕わるまじく候、此の旨お気遣い下されましく候…」を残して突然姿を消した。
一説には血判誓詞に背いてまで美人の新妻おこよとの愛を貫いたとも、兄の毛利右源太が奔走した仕官先の家臣になったとか、公家に仕えたともいわれるが、いずれも確かではない。
いずれにせよ、仇討ち直前の離脱だっただけに討入り配置の手配が済んでおり、小兵太が任されていた裏門組には急遽表門組から三村次郎左衛門が配置替えとなるなど混乱した。

人名 岡林杢之助 (おかばやしもくのすけ)
書誌事項 赤穂藩城代家老 1000石
コメント 旗本の次男坊で赤穂家城代家老職を勤めてきた岡林家に養子に入った人物である。城開け渡し後、同志に加わらず江戸の生家に戻ってきていたが、討入り事件が伝わると、兄弟たちからこのまま存命していたら士道が立たぬと説き伏せられ、12月28日、兄弟の面前で切腹し、申し訳を立てさせられた。

人名 中田理平次 (なかたりへいじ)
書誌事項 浅野家家臣
コメント 仇討ちの盟約に加わっておきながら、酒色に溺れ、はては三島の女郎宿で悪い病気を貰った挙句、脱落、とういうまことに不名誉な史料が残っている。結局は自分を律することができなかった罰であろう。

人名 田中貞四郎 (たなかさだしろう)
書誌事項 浅野家家臣
コメント 片岡源五右衛門磯貝十郎左衛門とともに江戸表に有って主君浅野内匠頭に仕えた小姓であり、主君が切腹したあと、ただちに髻を切って弔意を表した。この3人は仇討ちの決意を固め、復讐の念に燃えて赤穂へ下り、同志をつのろうとしたが、誰も耳をかさなかった。
その後、吉田忠左衛門のとりなしで盟約に加わることができたが、田中はある晩、夜鷹と言われる下級の遊女を買ったのが病みつきになり、最後には梅毒に侵され鼻が欠けるなど、とても同志とともに討入りできるような面体ではなくなったため、ついには11月をもって脱盟、というよりも落ちこぼれてしまった。

人名 進藤源四郎 (しんどうげんしろう)
書誌事項 赤穂藩足軽頭 400石
コメント 大石内蔵助の従兄弟にあたり、内蔵助のために山科に隠居先を用意するなど尽力するが、次第にその行動を危ぶむようになり、元禄15年7月28日の円山会議に出席することなく脱盟した。小山源五右衛門の脱盟と合わせ、積極的に加わってほしかった身内の脱落に内蔵助は衝撃を受けた。
その後は可言と号して享保16年、81歳で京都で没している。

人名 小山源五右衛門 (おやまげんごうえもん)
書誌事項 浅野家家臣 300石
コメント 大石内蔵助の伯父にあたり、最初は盟約に加わっていたが、元禄15年7月28日の円山会議には欠席し、そのまま脱盟した。内蔵助は同じく血縁関係の進藤源四郎とともに自分の身内の脱落に衝撃を受けた。円山会議の直後、貝賀弥左衛門大高源五に命じて神文返しを行ったことは進藤と小山が引き金だろう。
晩年は鳥居休沢と号して城州八幡に在住し、正徳5年(1715)、68歳で没した。

人名 藤井又左衛門 (ふじいまたざえもん)
書誌事項 赤穂藩次席家老 800石
コメント 大石内蔵助安井彦右衛門大野九郎兵衛とともに、赤穂の四家老と称される。筆頭家老となった内蔵助を補佐し、藩政に貢献した。参勤交代の際は、大野と交代で出府し、どちらかは在藩していたという。刃傷事件時は藤井が出府中であった。
その後の様子ははっきりしないが、姫路の網干で淋しく死んだという。肩身の狭い思いで討入りを知り、晩年を過ごしたらしい。

人名 安井彦右衛門 (やすいひこうえもん)
書誌事項 赤穂藩江戸詰家老
コメント 長く江戸詰め家老を勤め、鉄砲洲の浅野家上屋敷に常駐していた。内匠頭が勅使饗応役になった際には、指南役の吉良への献上物のことなどの対応に追われる。
刃傷事件後の城開け渡しの際、大石内蔵助が受城の監視役、荒木十左衛門と榊原采女宛てに書いた陳情書(いわゆる鬱憤の書きつけ)を目にし、慌てて内匠頭の従兄弟にあたる美濃大垣藩主、戸田采女正氏定に持参し、結果的にその書き付けが江戸城の目付まで知れ渡る事になった。
その後の彦右衛門の消息は史料なし。

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